2021-08-02

「天馬船プロジェクト2021/神田川」のめざすことの一つである、「水辺に『防災コミュニティ』を形成していく」について、神田川×防災とコミュニティという視点から、歴史を踏まえ、詳しく紹介いたします!

目次>

  • 江戸の街づくりと防災(1)洪水から街を守る 「平川の流し替え 神田川の開削」
  • 江戸の街づくりの始まり「今は存在しない筋違橋」
  • 江戸の街づくりと防災(2)火災の延焼から街を守る 「火除け地の設置と市街地の拡大」
  • 江戸の街づくりと防災(3)街をつなぐ橋の不燃化「近代日本の幕開け 石橋の出現」
  • 東京の街づくりと防災(4)街をつなぐ橋の耐震化「関東大震災直後の橋は今も現役」
  • 東京の街づくりと防災(5)川は被災時支援の主役「防災船着場の役割と神田川の使命」

江戸の街づくりと防災(1)洪水から街を守る 「平川の流し替え 神田川の開削」

徳川家康が入府する以前は、日比谷入江には上流の数本の川が集まった平川が流れていました。

合流するエリアでは、しばしば洪水が発生し被害をもたらすため、入府前の1590年(天正18年)に道三堀を開削し、平川を江戸湊方向(現在の茅場町あたり)に流し替えるとともに江戸城への物資の輸送路を整備しました。

江戸の市中域が広がるに連れて水害の影響も広がることを防ぐために、1620年徳川秀忠は伊達政宗に命じて神田山を開削し、当時の石神井川と合流させて隅田川に注ぐ工事を行いました。この際に日比谷入江に繋がる平川は九段付近で閉鎖され、再び神田川と日本橋川が繋がって往来できるようになったのは飯田橋に鉄道駅が整備され、近代物流が盛んになる1903年のことでした。

この時代の防災の考えは水害から街を守ることが重要でした。

鈴木理生:「江戸の川・東京の川」,井上書院,1989,p103

江戸の街づくりの始まり「今は存在しない筋違橋」

神田山が開削されて平川の水が神田川として流し替えが行われた後の1636年に御門と橋が築かれ、橋を渡って西に行くと神田明神の前を通って中山道に向かい、東に行くと下谷御成通で上野寛永寺に向かう二つの道筋が交差することから筋違門・筋違橋と名づけられたと言われており、この当時は神田川が江戸市中と市外の境目でした。

上流側の昌平橋は神田明神や昌平黌に繋がる橋として江戸時代からありましたが、万世橋は明治時代に入ってからの架橋で、武州鉄道を万世橋駅導くために現在のマーチエキュート上部に線路が敷かれ、250年余りの歴史を持つ筋違橋は撤去されてしまいました。

東京都教育庁社会教育部文化課:「江戸復元図」,緑川地図印刷株式会社,1989,p13

江戸の街づくりと防災(2)火災の延焼から街を守る 「火除け地の設置と市街地の拡大」

江戸の街は江戸詰と参勤交代で集まる武家の人口は50万人に及んだといわれ、町人人口を加えると江戸幕府開闢後50年の明暦時代には70万人とも80万人ともいわれる年になっていました。このような江戸の街は急速な人口集中で、特に町人の居住環境は過密な状態になっていたようです。

1657年に本郷辺りから出火した火災は、冬の季節風に煽られて2日間で江戸の街を焼き尽くし、死者は10万人を超えたと言われています。

この後も火事は多く発生しいつも大きな面積を焼き尽くすことがしばしばでした。街づくりの見直しを迫られた幕府は道路の拡幅や要所には延焼の緩衝帯(火除け地)になるように広小路をつくりました。広小路の地名は今も随所に残っていますが、この広小路をつくる施策は町ごと移転する方式を取り入れ、多くは現在中央区の新川の地名になっている霊岸島に移転しました。それ以外にも神田須田町付近には下連雀という町がありましたが、現在の三鷹市下連雀はここから町ごと移転したものですし、文京区の吉祥寺という地名も、現在の吉祥寺に移住したものです。

一方、大名屋敷も隅田川を挟んで本所や深川などに移り、江戸の街がさらに大型化する基盤がつくられ、江戸境も品川・新宿・北千住・中川番所へと遠方に移動して行きました。

江戸の街づくりと防災(3)街をつなぐ橋の不燃化「近代日本の幕開け 石橋の出現」

大政奉還によって江戸城が開城されたことで、城の護りを固める門の必要がなくなり、そのため解体した門の石垣を再利用する形で石橋が築造されました。東京で現存する石橋で最も古い橋は1877年に架けられた常磐橋ですが、この筋違橋はその4年前の1873年に築造されていました。石橋の多くは石積みの構造上、眼鏡橋の形になりますが洪水時に流れの障害になりやすいことから、少し下流に万世橋が架けられ、1906年に撤去されました。

東京の街づくりと防災(4)街をつなぐ橋の耐震化「関東大震災直後の橋は今も現役」

1923年の関東大震災位で東京は壊滅的な被害を被りました。建物と同様に川に架かる橋も崩落し、焼失もしました。市民の生活維持と街の復興のためには道路を繋ぐ橋の復興を急ぐ必要があり、隅田川を中心に東京の川や運河に架かる橋の殆どは被災後10年で耐震性の強度を増したものに架け替えられました。現在神田川に架かる13箇所の橋のうち10箇所(日本橋川を含めると24箇所)はおよそ90年前の構造物で、首都直下型地震に対応した耐震補強工事も行われて、今も現役として存在しています。

東京の街づくりと防災(5)川は被災時支援の主役「防災船着場の役割と神田川の使命」

1995年神戸を中心に阪神淡路大震災がありました。鉄道や後続道路などの陸上交通網が甚大な被災を受け、海上からの救援や支援が効果的であったことを学んだ東京都は臨海部と河川に150箇所を越える防災船着場を整備しました。防災船着場には被災者救援・救援物資の搬入・帰宅困難者支援など多様な機能があります。その中で神田川には2箇所の防災船着場があり、水面がつながる日本橋川にも3箇所の船着場があります(「防災船着場整備計画一覧」東京都)。西に奥深い地形の東京では内陸部への基点になるこの5箇所の防災船着場が担う役割は重要です。しかしながら日本橋川の上には60年前に建設された高速道路が存在し、震災発生時に道路上での事故や道路構造体の損傷によりその下を安全に航行できない場合のことを考えると、神田川が担う役割はさらに大きくなります。

大雨に際して神田川上流部には各支流ごとに大容量の調整池が設置済みで洪水に対する安全性は高められていますので、いつ起こるか分からない近未来の大震災時に対応する神田川が持つ使命は大きいものがあります。

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