江戸東京の水辺は都市文化の中心地

都市において川や水路といった水辺は、まちとまちを結び、人と人をつなげるネットワークを作り上げてきました。それぞれの水辺には、江戸時代から河岸や荷揚場などが発展し、水陸のつながりを支えてきました。江戸の水辺は、川-河岸-町-地域が一体的に結びついた賑やかな空間が生まれていたのです。こうした賑わいは、江戸に東京なっても変わることはなく、むしろ一層に生活や産業の中心として水辺空間が発達していきました。戦後もしばらくこの日本橋川でも、日々たくさんの船が行き交う風景を見ることができたといいます。かつて水辺は都市文化の中心を担っていたのでした。

なぜ水辺文化は
衰退したのか?

江戸東京の水陸のネットワークは、戦後の急速な都市化のなかで徐々に失われていきました。俗称「カミソリ堤防」と呼ばれる護岸整備も、水陸の分断の一因となったといえるでしょう。

また、かつて繁栄した水を使った産業やそれに関係するコミュニティが衰退し、川上から川下のネットワークが私たちの意識から遠のいていきました。それは、水辺の生態系の機能不全といえるかもしれません。[川⇔河岸(水際、川端)⇔商店・作業場・住居 ⇔地域⇔都市]

そして、水辺の産業が衰退してしまったことで、空間を維持管理する担い手自体が少なくなってしまいました。地元の力で活性化・浄化・環境整備を行う人とお金のサイクルを、いまこそ再び築いていくことが必要ではないでしょうか。

水辺のポテンシャル

現在の東京の水辺のポテンシャルのひとつとして、防災船着場を挙げることができます。東京都が整備した「防災船着き場(災害時に人や物資を運河等の水上からも輸送できるよう整備された船着場)」は、都内でおよそ50箇所も整備されています。しかし、まちとのつながりを持っている船着場は限られており、そのポテンシャルが十分に活かされていないのが現状です。

防災・コミュニティ拠点としての水辺

利用にあたっての障害など課題はあるものの、これらの場所の有効的な活用方法の模索や注目度を上げていくことは東京の防災にとって大きな利益となります。また、こうした環境を最大限に利用していくことは、水辺を中心とした地域のつながりやコミュニティをつくりあげていくことにもつながります。


都市の水辺再生を目指して

近年、様々な水辺を中心としたイベントやまちづくり活動が各所で行われており、その気運はますます高まりを見せています。このコロナ渦においては、屋外のオープンスペースとして水辺を再評価していくこともありえるでしょう。かつての水辺の記憶を受け付きながら、そのポテンシャルをもう一度引き出していく、そのきっかけとなるような出来事を、この天馬船プロジェクトでは目指していきます。

江戸城外堀での水辺イベントの様子